江戸中期 歌人釣月(こうげつ)を招いたのは

慈円寺開祖だった~記念碑で判明~


 釣月(こうげつ)法師ー明珠庵釣月(1659~1729)といえば江戸時代前期から中期にかけて活躍した僧・歌人として知られています。資料によりますと万治元年(1658年)江戸に生まれ江戸二条派の正統で和歌を学びました。その後京都に移り、清水谷実業、武者小路実陰の門下で歌道普及に努めました。後に出雲で和歌を指導したとあります。出雲では初め慈円寺を拠点に、後に乞われて松江の法眼寺で二条派歌道の指導にあたりました。江戸中期から末期にかけて出雲は和歌の中心地と言われるほど隆盛を極めました。これも釣月の指導があったからこそ、というのが定説だそうです。では釣月がなぜ縁もゆかりもない出雲の地にやってきたのかーー。古来出雲は「和歌発祥の地」といわれながら歌道が当寺盛んでなかったことを無念に思い宝永年間(1704~9年)にこの地にやってきた(出雲文化活用プロジェクト報告書2014)とされています。
 ただ、京都・江戸を舞台に創作活動をしていた釣月がわざわざ遠く出雲の地にやって来たのには他に動機があったに違いありません。そう思いながら慈円寺の境内に残された石碑の字句を解読した資料(郷土史家・故玉木保俊氏の説明文から)に目を通しますとそのあたりが明らかにされています。(今は石碑の文字は朽ちて判読はほぼ不可能)
 以下に資料に残された文章を再掲します。

明珠庵釣月上座ノ和歌ノ名人ナルコトハ松江円輝山法眼寺ノ墓碑ニ詳シク書カレアルモ釣月ガ当出雲國ニ来遊シタル由来ハ楯縫郡西代邑ニ玉木長右衛門正盛テウ豪家アリテ、常二文事ヲ事トシ風雅ノ道ニ遊ビ年々京都ニ上リテ、文学、茶道ノ研究ヲナシ居タルガ偶々京都ニ於イテ二条派歌人トシテ有名ナル、釣月ニ会イソノ教ヲ受ケヰタルモ、帰国スルニ及ビ、神国出雲ニ彼釣月ヲ伴ヒ斯道ノタメニ尽サシメント念願シ再三再四釣月ニ来遊センコトヲ乞ウタ、釣月モ正盛ノ熱意ニ動カサレ遂ニ錫ヲ出雲ニ転ジ西代邑慈円寺ニ投ジ化ヲ四方ニ及ボスニ至ッタ、釣月ニヨッテ地方同好者流ヲ教化センコト少ナカラズ名声松江城中ニ達シ召サレテ錫ヲ松江ニ転ジタルナリ、 松江法眼寺ノ墓碑銘ヲ見テ釣月ノ徳ヲ后世ニ伝ヘルタメ願主玉木正方、勝部尚賢碑銘ヲ余ニ乞ウ故ニ拙文ヲ掲ゲ以テ銘トナス云々  「雲藩穏士観時〇是誰誌之」
 上記玉木長右衛門正盛は10代で慈円寺の開祖。碑を作った正方は15代。

 

慈円寺の一角に

 

苔むした記念碑

 

碑の建立のいきさつも記されている

 

2022年01月02日