「五輪さん」敗走の戦国武将か?

慈円寺境内 今年も主婦たちが慰霊

 

 慈円寺の境内には地元の人たちが「五輪さん」と呼んでいる石塔があります。その「五輪さん」を囲んで今年令和3(2021)年7月31日(土)、地元の主婦たちが集まりしめやかに慰霊祭を営みました。
 ただ、祭られている主は誰なのかーー。知る人はありません。言い伝えによると戦国時代、近くの鳶ケ巣城落城の際負傷した武将がここで亡くなったのを地元の人たちが悼んで建立したということです。
 「五輪さん」は正式には「五輪塔」とも「五輪卒塔婆」ともいい、発祥はインドとされ、日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多くみられるようになった、と言われています。下の方から四角の地輪、円形の水輪、三角の火輪というように、地水火風空と五つの造形で作られています。慈円寺の「五輪さん」はタテヨコ50センチの四角の上に〇を重ねた高さ130~40センチのダルマのような形になっており、五輪ではありません。形はいろいろあるようですもともとお寺の境内ではなく今の場所から北西に30メートルほどの畑地にありました。閻魔(えんま)様などを祭る十王堂とセットになっていましたが、土地改良事業に伴って昭和中期に境内に移設されました。近くに十王堂がありますが、建物も十王像もいつのものか定かではありません。
 さて、祭られている主ですが、平成9年刊の「国富郷土誌」では「鳶巣落城の時(天文12/1543年)に一人の武将(姓名不詳)が負傷して来てこの地に於て死亡したといわれている」と記述しています。とすると尼子と戦って敗れた大内・毛利軍か、それに加勢した小早川正平の軍勢の誰か、ということになります。分かっているのは今の三原市(広島県)に本拠を置いていた小早川正平。当時二十歳の若武者でした。尼子軍の追撃を受けてバラバラになりながら主従8名が美談の地に辿り着き、ここで最期を遂げました。その時のエピソードも数多く残っています。
気になるのは8名のうち位牌に名前があるのは7名だけ。「郷土誌」では「残る一人(の名がないの)は身分が低かったから」としていますが、ひょっとして一人は美談へ流れる途中、隣村の西代で落伍したのではーー。心根の優しい西代の人たちが一兵士の死を憐れんで、という想像もできます。
 いずれにせよ異郷の地で果てた名の知れぬ戦国武士のために地元の人たちが500年近くも欠かさず供養を続けてきたことになります。今年も慈円寺のおひざ元、西代上組東の主婦たちが錦織正文住職お読経の中で線香をあげてその冥福を祈りました。

令和3年7月31日   炎暑の中で錦織正文住職が読経 西代上組東町内の女性を中心に15名が参列、異郷で果てた戦国武士霊に焼香 冥福を祈りました。

 

2021年07月31日